izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

少女期


「作画する画家」F0。(自画像)

「幼い頃の身体の傷と心の傷」に引き続き、幼少期その後を書いて行きます。
(幼少期を描いた〜心の傷)にはまだ自分の事や周りの事全てを書き切ってはいませんが、とりあえず進めます。

私はシスターが校長を務める、ミッション系の中学に大叔母の強い進めで入学しました。

基、最初、私はミッションスクールを希望してはいませんでした。

母の問題で、小学6年生で転校するまで、街中の小学校でしたが、私は生徒会長をしていた男の子に恋心とかまでは行きませんでしたが、ある事できっと自分は私に謝る事が辛かったのだと思うのですが、こっそり私に謝ってくれて誠実な人だとも思い、また全ての科目でトップだったので、「こんな人になれたらいいな。」と一種の憧れを持っていました。小学3〜4年生の頃の事です。

その男の子が国立大学の附属中学に行くつもりらしいと云う噂が女子の間に流れ、(実際にその男の子は附属中学に合格して行きました。)私は、自分もそういう道を行きたいと思い、猛勉強を始めました。

勿論、あんな母や母の親族が家庭教師とか付けてくれるわけもなく、私は有名私立中学受験用過去問などを、少ない小遣いで買い、パズルを解く感覚で、一人で勉強し始めました。

みんなが遊ぶ時間をそうした変わった方法の勉強に費やし、学校ではこっそり、教科書を先に進めて読んでいました。

ところが6年生で転校になり、いざ受験と思っていたら、その頃、その別の市にある国立大学附属中学には、街中の2校しか行けない決まりがあり、(あるいは交通費をケチった母が先生にそう言わせた可能性もあり、)受験勉強が、したばかりでそれっきりになる事になってしまいました。

転校後、成績が急激に伸びたので、一応、あの母も週1日か2日の塾へ入れないわけには行かなくなっていました。

そこにこの県でスポーツでとても有名な、だけど私には確実に受験に受かると思われる私立中学から案内状が送られて来たので、私は「ここを受ける!」と言いました。
しかし母達は合格してもらっちゃ困ると思っていたようで、おそらく国立大附属の次にレベルの高い女子校を受ける様に言いました。
(勿論、こっちなら落ちる可能性大と思ったからでしょう。)

ところが合格してしまったので、今度は合格が分かったんだから、私立女子校ではなく、公立へ行け。と云う普通の親にはありえない事を言ったりしたわけです。

ともあれ入学しました。
そこからズレが始まりました。
私がお嬢ちゃんだったのは、10歳までで、しばらくあの下品な母方の一族と暮らしてしまいました。

なので、お嬢様学校に溶け込むには、上品に振る舞わなければならないと思ったのです。

実際は社宅に住んでいる人も小売店の娘さんもいたのですが、それを知らず、「エースをねらえ」のお蝶夫人を模範として必死で上品に振る舞いました。

一年生の間、全くもって模範生をやり、出身小学校に中学からお礼状まで行ったそうです。

ところが2年の時、ある問題で他の生徒達とのズレが起こりました。

それは「お父さんが一番偉い。お母さんより偉い。」「女は男に遜らなければならない。」「男性は女性より偉い。」という、
キリスト教の授業を道徳に置き換える、この学校だけでなく、
世間一般の通念において男尊女卑が当たり前であったこの頃において、

決してあの暴力伯父に跪かなかった私は、「そんなものは間違っている。」という意思表示をしました。

今でこそ結婚していますが、男に偉そうにされるくらいなら、「独身でいる。結婚なんか絶対しない。」と云う意思表示をはっきりしたのです。


「女夜叉」F6。

今でこそ割と普通かも知れず、単なる進歩的な考えであるはずです。

しかもテニスをやっていたので、キング夫人やナブラチロワウーマンリブの洗礼を自伝とかまで読んで、しっかり受けていたのです。

また祖父の言いようの父もいましたし。

ところが、一、観念の違いで、お嬢様方はワンワン泣き始めたのです。
「この人、お父さんが偉くないって言うの!」

はっきり言ってこの反応に空いた口が塞がりませんでした。

同級生がどんどん集まり泣き喚きました。
AクラスとBクラスと有って全員で80人くらいいましたが、つまり70人以上、多分80人なら79人、ほぼ全員が私と異質だったと云うわけです。

因みに私は小さい頃から放って置かれては祖父の店のすみで絵を描いており、幼い私の絵をお客さんが褒めてくれ、父が自慢していたのを覚えています。
中学受験の勉強をしながら、自分は漫画家になると、決めていました。
実際に描き始めて、投稿もし始めていました。

漫画家になるのに、私にとってこんなへんてこりんな世界にいるのはこりごりでした。

何故、私までもらい泣きしたのかよく分からないけれど、その日、中2で学校をやめる事にしたのです。

留年させるの卒業させないの脅されて、たまに何日か行ったかと思いますが、(その学校、帰宅するまで私服に着替えたり、ショッピングに行ったりが校則違反なのですが、)私は父方の祖父母や父の家によって(つまり帰宅して)服を着替えて大きめのバッグを持ち、その頃、大好きだったレッド・ツェッペリンジャニス・ジョプリンなどの大きなLP版を買いに行っていたのですが、(LPを買いたくて、校則に違反しない範囲で学校に行ったというか・シスター達が下校過ぎの時間から暫く、私服のシスターもいて、見張るために街中をうろうろ歩いていたのです。まして病欠しか許されないのだから、登校しない限り買い物に行けません。)同級生に目撃され、

その日は私は学校に珍しく居たにも関わらず、私が学校ではない塾に通って、どこか他所の高校に行くために勉強している。という噂まで立ちました。

3年生にあたる年齢の頃はど田舎から寝台特急に乗って漫画のセミナーみたいなものに行っていました。

私は卒業証書を貰う事を拒絶し、暫く漫画を描き続けました。

しかし、ちょっと言葉を覚えたくて、イギリスに留学し、(その頃は母方の一族は事業に失敗して残らず居なくなっていたので母はカレッジへ入れると聞いて大喜びでした。)ところが留学中の旅行で男性に襲われかけ、(つまり女子校育ちの無菌状態でもあり、たいした事にもなってはいないのに、触れられたのキスされたのが心の傷となり)帰国してみると、

絵は描けますし、物語も作れますが、漫画のコマ割りが出来なくなってしまっていたのです。

その頃、我流で油彩を描き始め、ギターを買い、ロックミュージックにも染まり始めました。

因みに息子も大分、育った2010年、私は勉強もせず、単なる腕試しに高卒認定(大検)を受けました。
勿論、積み重ねの学科である数学は棄権。また、生物を受けるつもりが物理と記載したようで、こちらも試験に出ず棄権しています。
そして英語は検定を受けているため免除となりました。
しかし、受けた科目は全て合格しました。

その後、子育てがほぼ終わり、絵をまた少しずつ描き始め、大好きな漫画家である吉田秋生さんの出身校でもあり、画家の登竜門とも言える武蔵野美術大学に行くために、理科の残りを教科書丸暗記、数学はインターネット上にある不忍堂で教え下さる事だけ勉強し、(2010年の後は受けも勉強もせず)6年の沈黙を破って合格しました。

ただし、ムサビには、通信課程ですけれど、師の強い反対にあい(絵を一からやり直しさせられ、今、持っていたものも無くす事になる。現状の方がより勉強になっている)学歴ごときが欲しくてならやめておきなさいと言われ、留まりました。

つまり、あの女子校で習った事や私が勝手に勉強した事は、中学2年生分で充分、高校卒業程度だったという事なんでしょう。

威張る気は無いですけれど、おそらく、男尊女卑な考えなどを教えていた学校教育に呆れと、不信を今も持っているのです。