izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

画業と生きて行く意味


「作画する画家」F0。

関東に来て私は、子育てと、事務系の仕事も場合に応じて行なっていました。

未だ関東圏に来る前の40歳前後の頃、ある人に頼まれて、その人の肖像をドローイングで描きました。

私は画家として、ペインティング(塗るの)と比べてドローイング(鉛筆、ペン、または木炭等で描く)は苦手な方だと思うのですが、しかし、20代から全く描いてないのに、腕が落ちていない事に気付きました。

子供が成長して専門学校生になった頃、(それまで子供は自分の意思で私立高校でたいへんでしたが、)私は初心者に向けた、デッサンとカマイユ画法を教えるアートスクールに通い始めたのです。

そして、そこは展覧会向きではない事から、しばらくしてずっと、(この令和5年3月まで、)今までいたアートスクールに所属したわけです。

私はうつ病が酷く、子供が成長する事だけが楽しみでしたが、音楽から離れて、ここへ来て生きる目的が出来たのです。

早く寿命が尽きてしまえばいいとさえ思っていました。(一種、自分で手を下さず、自然な自殺を望んでいた時期がありました。)

が、絵を描く事が私を幸せにし、長生きをして出来るだけたくさんの作品を仕上げたいとすら、願う様になりました。

浜田晋先生の創ったクリニックで、暫く竹中星郎先生という、どっちかというと老人医療の権威の先生が私を診ていました。

浜田先生のクリニックは他の精神科とは考えが違っています。
院長やたいていの医師は精神保健指定医(無理矢理入院させる資格)を放棄しており、普通、家族中心の医療をするところ、あくまで患者の意思決定などを中心とし、患者を出来るだけ一般社会に戻し、一般人として扱います。
あくまで他の誰かのためではなく、患者本人のための医療を行なっています。(浜田先生の医学書にはうつ病に限らず、統合失調症の患者の完治例がたくさん載っています。)

その竹中先生は食道がんで引退され、亡くなったのですが、私が初入選を果たした時、(診察日の関係でもう離れていて)最後のお手紙を下さっています。


竹中星郎先生。(ご家族にお礼として贈与)

「入選おめでとう。でもこの道はゴールの無い道です。ここがゴールとはいつも思わず、しっかりと歩いて行きなさい。」

しばらく、竹中先生は、私がショックを受けるのを危惧されてか、亡くなった事を発表もなさらず、私はWikipediaで先生が生きている(事になっている)のを毎日の様に確認して、安心していたのですが、クリスマスプレゼントを院長である梶原先生に渡して欲しいとお願いしたら、「実はね、もう秋に亡くなっている。」と、辛そうに教えられました。

私は哀しかったし、浜田晋先生が亡くなった時は大粒の涙を流し声を上げて泣き、うつ状態になりましたが、でも絵を描いて行かねばと、竹中先生にも「絵を描く事でうつ病が治った。」とさえ言われたし、負けるものかと、描き続けました。

この3月までのアートスクールは殆ど欠席せず、2回の避けられなかった入院を除いて、実際、(インフルエンザなどで)数日しか休まず続けました。