izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

子供の誕生と母の失踪

30代になって妊娠しました。というか基、現在の主人の子を母の指示で2回、堕胎させられています。(他の男性との間には無し。)

しかし今回は、結婚していたので、母は堕胎しろと言えなかったようです。
私も堕す気などありませんでした。

子供が産まれて9日目です。
母は失踪しました。

会社が儲かっているうちにたたんで、別の店を母は始めており、商売が上手く行ってないと聞かされており、自殺した事を私は危惧していました。

正常に生まれた赤ちゃんを抱えて、しかし、相談にのる母がおらず、そして心配し、私はしまいにはうつ病になってしまいました。

子供は育って行って、今でこそちゃんとした大人になり、私が絵を描く事を助けてくれるのですが、その子が小さい時、入院が有り、真ん中の妹がしばらく面倒をみてくれましたが、私の退院の後も妹は私の子を返そうとせず、(後に父のカルテに記載が有り、妹がごく若い頃から尿検査に引っかかっており、彼女が糖尿病であり、正常な子供が望めなかった事を知ったのですが、)ある日「この子は私の子よ!」と無理矢理、取り返しました。

ところでうつ病の治療薬として出された薬はアナフラニールという、莫大な強さの抗うつ剤で、私はあっという間に躁転しました。

その頃の田舎のクリニックは相当、私を弄んでくれて、躁病と、うつ病が繰り返す波の様に行ったり来たりしました。

そのうち別のクリニックに自分の意思で転院し、そこでは、前記の東京の浜田晋先生が、電話でそこの医師をコントロールしてくれて、(もう引退されていましたが、携帯電話の番号を教えて下さっており)私を守って下さいました。

とりあえず田舎では田舎の差別が有り、私は一度、職に就きましたが、すぐに辞めさせられました。

そして東京に居た時の様な、自分で家事も仕事もし、という事が出来なくなり、うつ病の時はベッドから起き上がれない状態が続き、どんどん出来た事が出来なくなって行きました。

しかし、浜田晋先生が2010年、逝去されたので、もう田舎にいて守ってくれる人が居なくなり、(実は浜田先生が亡くなった時、虫の知らせがあり、というか、作ったクリスマスプディングとイギリスのクリスマスケーキを送ろうと思って入院していらした病院に久しぶりに電話の取り継ぎをお願いしたところ、「その様な方はいらっしゃいません。」と言われ、浜田先生の造ったクリニックに電話したところ、「今朝方、みまかられました。」という知らせを受け、私は現在の浜田先生のクリニックの院長である梶原先生に、お葬式の日、「東京に出たらお願いします。」と、既にお願いしており、)私と主人、丁度、中学に上がる時の息子は、関東のある街に引っ越したのです。