izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

結婚式・その後


「一般的な幸せ」

主人は東北で私は中国地方。結婚式は初めての結婚記念日に東京で集まる形で行いました。

既に、おおかたの予定が式場で決まっていたのに、その式場に同業者(テレフォン・アポインター)から入電があり、「白ドレスが無料」というキャンペーンだったのに、アポインターは、「白ドレスも(お色直し後の)カラードレスも無料です!」という同業者として、してはならないと教育された失敗をしてしまい、結果、私はドレスは両方全て無料。という中、格安でちゃんとした結婚式を挙げています。


ところが結婚式の意味は私にとって小さな女の子が夢描くもの。以上の意味はなかったのですが、主人の母と実母が交わした言葉から推測するに、(ビデオの中に残る)一般的にはそういったものではない様です。

社会的地位を誇る場だったりして、恋愛の成就とは関係が無い様なのですが、

私達の式は恋愛の成就以外の何でもありませんでした。

披露宴のエンディングに流した曲はRCサクセションの「スローバラード」で、そういう一般的な結婚というものではない事を来客達に明らかにするものでした。

新婚旅行の後、既に持っていたオール・イン・ワン・シンセサイザーの他に、PCも入手して、普通のやり方と違うDTMによる作曲も始めました。

つまり、主人の母が「自分の息子と思って使ってね。」と、私の母に言い、母はハンカチで涙をふいている場面がビデオに有ったのですが、そもそも母が父の兄から任せられていた、父名義のたった一つの店を持つ会社に関して、そこで働く事について、私達は全く無関心でした。

別の方法で音楽をやって行こうとしていただけでした。
ツトム君とも連絡を取り合い、ギターを入れてくれるのキーボード削っての話をしたりして、はっきり言って差別されている田舎で東京にいる時の様に、私がどこかで事務的な仕事をするのも無理な状況であるし、私が最も嫌いな人物である父の兄が関与した、そのレストランで働く事はプライドが許さない事でした。
また、自宅は充分に本当は小金持ちなのを知っていたし、東京では生きて行くために働く理由があったけれど、ここで働く理由は見いだせませんでした。

そして主人にもそうしてもらうつもりも無く、そして主人の母も知らなかった事だけど、ほぼ完璧に私が外で働き、家のこともして、彼はいつも私の帰りを待っていたという事実上、それ自体が可能な事ではない事に、多分、大方の私の両親の親族、そして母が、全く気づいてなかった様です。

私は東京へ出る前に戻り、漫画が音楽に変換しただけですが、母が主人に(その頃、見た目は普通の青年だった。)仕事が期待出来ると思っていたのではないか?という事が、今、思うと私に少しだけ引っかかっている事です。

私は自分を理解してくれる病気こそ違えど同類を伴侶として幸福の絶頂にいたのです。