izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

幼い頃の身体の傷と心の傷

私が10歳の時、母は父方の祖父に離婚を申し出ました。

ところが祖母同士が従姉妹なので、たとえ離婚しても他人になれません。
また社会的地位向上を狙っていた(市会議員になるとか)当時、田舎には珍しい博士号持ちの見栄っ張りな伯父(父の兄)が、離婚されると自分の傷になると思って母に離婚でなく別居する様に持ち掛けたそうです。

会社を一つ、父名義にしてあなたが好きにすればいい。

という話があったそうで、母はその後、母方の祖母や叔母、そして隣には、何事も暴力で子供を支配出来ると信じ込んでいた伯父がいました。

私は10歳、妹達は難しい年頃では無いと思われる6歳と7歳でした。

私の父の人格否定がそこで始まりました。
私は小学校のクラスで一番背が高い子で、そんななかで、すぐに第2次成長が始まり、大人達の変化に異常さを感じていました。

小学校が終わると、父方のおじいちゃんのうち、つまり父が住んでいる家によっていました。
父と口をきく事を祖父は拒み、後から聞いた話、祖父の事業が失敗したのは祖父自身のせいだったそうなのに、父を「失敗者・落伍者」呼ばわりし、父は祖父の言っているのは実は嘘で、とか言いもせず、父親(祖父)の代わりに磔のキリストをやっていました。

なので、おじいちゃんがでたらめを言っている事に私は全く気づきませんでした。

金の亡者の母は祖父が失敗して後継としてつまらなくなった父を捨てたというわけでした。
祖父が亡くなりお葬式で、世間の祖父の評判を聞くまで、私は父が失敗して会社が殆ど傾いたのだと思っていました。

しかし父は祖父のプライドを守ってあげる、そのためなら子供達にうつむいて見せる、きっとそうやって生きて来た人でした。

話を戻します。祖母の家の隣には逆らえば、あるいは気に入らないと殴る伯父がいました。

私はそれまで「お嬢ちゃん」と言われて暮らして来たのです。

なので何度も逆らい吹っ飛ぶくらいぶん殴られ、殴られると更に絶対に従わないのです。
いつだか柔道の技をかけて体重が100kgはあった男が私の肺の上に乗っていたため呼吸が止まり、口も聞けず、やっとの思いで、「息...が..出来ない....。」と発音したら飛び退きましたが、私は伯父の顔を爪を立てて引っ掻いてやったのです。

妹達は子供で割と順応出来た様ですが、その小学生の下の妹の口にその男が接吻したので私は引っ叩いてやり、そうすると吹っ飛ぶくらいぶん殴られるのですが、私はそれでも向かっていく子でした。

母方の親戚が集まって別の家に住んでいたので、家から放り出されると大叔母(祖母の妹)が私を連れに来て自分の家でちゃんと「お嬢ちゃん」だった私を私として扱ってくれ、自分の家で私を保護してくれるのでした。

隣の家で酷い言われようの父方の祖父を「マスター」と呼び、父を「こうじさんはね、本当は兄弟で一番頭が良かったのよ。だけど身体を壊したから(結核になった・当時は死んだりする病気だった)お医者さんとかにはなられんかったけど、一番性格も良い人よ。」と、言ってくれるのです。

母は私が伯父に子供の体で技をかけられ窒息死仕掛けていた時、風呂に入っており、何が行われていたか察していたはずでしたが、風呂から出ては来なかった人です。

「ある日パパと二人で語りあったさ」という歌の走り書を見て彼女は、そんなに父親がいいのか!?と、般若の様な顔で説教を始めたりしました。

「それは学校で歌うやつ!」と言うと、「何だそうなの。」と無関心になる人です。

しかし学校で歌わされる家族の歌と、自分のうちの事のギャップが、どれ程、少女期の私を宙ぶらりんにした事でしょう。

妹達は年齢がずれているので、特に深く考えず、こんな狂った母方の家族(大叔母とその主人は除く)にうまく適応して行った様です。

父は最終的には相手にされない事に慣れる事で認知症になって行きました。

真ん中の妹は、父を認知症にした犯人と言って間違いはありません。

私のかける言葉さえ、おそらく祖父が禁じた様に妹から禁じられて、それから妹の周りにいる者の圧力で、拒絶して黙ってお茶だけを飲む様になって行ってしまいました。

元に戻すと、私は中学受験して少し程度が高い女子校へ行ったのですが、受験に受かったんだからそれでいいだろう、公立中学校へ行け等とあの一族に言われたのですが、大叔母が大喜びで、あの人達をやっつけてくれました。

因みに学校寮の寮生はみんな寮生活を嫌がっていましたが、私だけが寮に入る事を望んで認められなかった生徒だったはずです。