izumi-akie’s diary

画家・和泉暁絵の部屋

10代に誤診された睡眠を取らない事による意識障害


「心の傷」「少女期」に続けて書きます。

10代、漫画を描いていた頃、無論、イギリスへ渡る前です。

私はある音楽評論家に宛てた評論分を8月の終わりから書いていました。

漫画家は3日〜4日寝ずに描くのが当時のやり方で、漫画家志望の私は、そういう事は日常茶飯事に行っていました。
一つの大切な事が終わる迄、眠らないのです。

私はその評論文を是非ともジャニス・ジョプリンの亡くなった日(10月4日)に特集して欲しくて、8月末から評論文を書き始めましたが、原稿用紙で40〜50枚(以上だったか?とりあえず雑誌の半分を占める量です。)を書き上げ、それを10月4日に間に合う様に送ったわけですが、

当時ワープロは多分、存在しておらず、ぎっちょ(左利き)の私には、(書く事自体遅く、失敗したら書き直しする私には)至難の業であり、ここで仕上げないと眠れない私は、1か月以上も一睡もせずにこの原稿を書き続けました。

そして駅前の郵便局で切手を買い、預けて、それから私は自宅に帰りつき、眠ろうとしましたが、そこから先の記憶が、定かではないのです。

目を覚ますとある精神科病院保護室に転がっていました。
その病院は今はどうなっているのか知りませんが、入れた患者は死ぬまで出さないところで、ここからの脱出は至難の技でした。
実際、普通の人らしき人も間違ってよく入っていたようですが、何がなんでも他の世界との断絶で精神病にしてしまう病院です。

私がされた、一番辛かった事は、ペンや鉛筆を一切握らせないという、虐待でした。

私は他の患者(殆どがお年寄りで姥捨山)の様に面会が殆ど無い形で放って置かれてはおらず、(面会は1週間で一度までと決められていたのですが、)父方の祖父母、父、母が1週間のうちにそれぞれやって来るので、外部との断絶が上手く出来なかったようです。

そして「何故、こんなところに閉じ込めるんですか?」という問いに医師が「そうやってヤイヤイ言うから閉じ込めるんだ。」と答えたので、「閉じ込められているからヤイヤイ言うのは当たり前でしょ。」と、医師をやり込め、1泊の外泊を勝ち取ったのです。

その一泊の間に父が私を大病院の心療内科へ連れて行き、なんだか分からない1日に飲まされる20〜30錠の薬を見せた上で、「全く必要無し。朝夕一錠づつ、寝る前一錠をとりあえず。」と、言われ、

その変な病院には「大叔母(その時、熊本へ帰っていた)が迎えに来て連れて行ってしまった。」と言って(大叔母は祖母同士が従姉妹のため父の叔母でもあった)ケムに巻いてしまいました。
その病院で3ヶ月半程犠牲にしてしまいました。

実際に暫くして私は熊本でも暮らしました。
薬は全く切れてしまいました。

渡英はそれより後の事です。

因みに「その眠らなかった後の私の症状は実際、何なのでしょうか?」と、東大医学部出の今、双極性障害を診ている医師に確認したところ、「そんなに眠らず居ると、人間は意識が飛んでしまいます。意識障害です。」と、教えて頂いたのです。

その当時、意識障害とかPTSDとか心因性とか内因性とか人格障害あるいはその他の、今、存在する細かい症状の知識は医者自体にありませんでしたから、(まだ何もよく分からない時代)その病院の医師はとても面白い誤診をしてくれました。

別院の問い合わせにそこの医師もビックリの回答です。

実際、入院中に「私が何病だというのです?」と、問うと、その医師は「何病だか分からない病だ。」とか頓珍漢な返答をしたものでした。

そういったとりあえずゲットした患者は極力出さない精神科病院に反対し、クリニックによる町医者としての地域医療を初めて始めた医師の一人である元東京大学医学部講師の浜田晋氏(昭和元年〜2010年)に、軽傷境界例(軽い人格障害)と診断されています。

また私の音楽評論文は私の好きだったその評論家の手に渡り、後の放送で知ったのですが、10月4日かどうか分からないですが、その前後あたりに、ジャニス・ジョプリンの特集をちゃんと組んで頂いています。

躁うつ病となったのは30代にある、とんでもない危害が加えられてからの事です。